強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の弱さ考 井上 慎平 (著)
いつまでがんばらなきゃいけないんだろう、と思うことはないでしょうか。
目の前の仕事はこなせている。当直も回している。誰かに責められているわけでもない。それでも、この終わりのなさはいつまで続くんだろう、という感覚だけが残る。
私がその状態にいたときに手に取ったのが、この本でした。
著者の井上慎平さんは編集者として働くなかでうつを発症し、そこから「なぜ僕たちはこんなに強くあろうとしてしまうのか」を考え直した人です。自己啓発書でも、癒しの本でもありません。強さを求められる世界に戻っていかなければならない人のための本だ、というスタンスで書かれています。
「みじめ」だと感じてしまう理由
いちばん手が止まったのは、著者が自分のうつを振り返る場面でした。
動けなくなった自分を見て、悲しいではなく「みじめ」だと感じた。なぜかと考えたら、自分がずっと知的能力や生産性で人の価値を測っていたからだ、と気づく。うつの自分を見下していたのは、過去の自分自身の視線だった。そういう趣旨のことが書かれています。
読んでいて、これは他人事ではないな、と思いました。
医療は、能力で人を測る文化がかなり純度高く残っている場所です。何例経験したか、何ができるか、専門医を持っているか、論文はあるか。測る物差しが明確で、しかも常に更新されていく。
その物差しを内面化した人間が、何らかの理由で動けなくなったとき、自分に向ける視線はどうなるか。おそらく、いちばん厳しい採点者は自分自身になります。周りが気を遣ってくれても関係ありません。物差しはもう内側にあるからです。
「やりたいこと」を問われ続ける職業
もうひとつ、深く刺さった箇所があります。
著者は、多くの組織では言いにくいこととして、こういう言葉を挙げています。やりたいことよりも、安心してここが自分の居場所だと思えるチームで働けるかどうかのほうが大事だ。周囲が期待してくれることをただがんばるだけだ。そして、「やりたいこと」がある人のほうがえらいという空気はしんどいのでやめてほしい、と。
医師ほど「やりたいこと」を問われ続ける職業も、そう多くないと思います。
志望科は決まったのか。サブスペシャルティはどうするのか。大学に戻るのか、市中に残るのか。研究はしないのか。学位はどうする。留学は考えていないのか。節目のたびに問われますし、答えられないと何も考えていない人のように扱われる。
でも、実際のところ「今の科でこのチームと働けているから、ここでやれることをやります」というのは、かなり真っ当な働き方ではないでしょうか。それが言いにくい空気のほうが、たぶんおかしい。
著者はこれを、ビジネスの世界が求める人間像の問題として整理しています。いつでもどこでも誰とでも変わらない一貫した自己と、状況によって形が変わる自己。前者が「強い」とされているけれど、それはビジネスというゲームと相性がいいだけで、えらいわけではない、と。
医局や病棟という場は、後者の性質がかなり強い場所です。誰と組むかで自分のパフォーマンスは平気で変わります。それは弱さではなく、単にそういう仕事だからだと思います。
「のんびりやります」が許される条件
経済の章に、興味深い補助線がありました。
競合が入ってきにくい小さな市場で、借入もせずに事業を立ち上げれば、のんびりやることは可能に見える。ただしそれが成立するのは、「系」が閉じている場合に限られる、という話です。
地域の公立病院は、一見すると閉じた系に見えます。近隣に競合がひしめいているわけでもないですし、売上を最大化するために働いているわけでもない。
でも実際には、閉じていません。医師の働き方改革も、地域偏在の問題も、病院経営の話も、全部外から入ってきます。人が足りなければ一人あたりの負荷が上がる。診療報酬が変われば方針が変わる。「このままのペースで」と思っていても、系の外側が勝手に動いてしまう。
終わりのなさの正体は、たぶんこれです。自分ががんばるかどうかとは別のところで、要求水準が動き続けている。
唯一、すぐ試せる処方箋
この本は分析が中心で、具体的な対処法はそれほど多くありません。そのなかで、ひとつだけ実行できそうなものがありました。
休めない人に「休め」と言っても休めない。だから、休むのではなく別の行為に切り替える、という提案です。
著者は「詩人の目で見る」と呼んでいます。散歩しながら樹の肌に触れてみる。虫が土の上を歩くのを眺める。雲の形が変わるのを見る。風の音を本気で聴こうとしてみる。詩にするわけではないけれど、詩にするかのように、足を止めてとことん観る。
これは、休息が下手な人向けの現実的な方法だと思います。何もしないでいることに耐えられない人でも、対象を変えるだけならできる。時間の感覚が減速して、焦りが減る、と書かれています。
当直明けの帰り道に試してみたら、思ったより効きました。眠れないときにスマホを見るよりは、ずっとましです。
この本について
編集者として働きながらうつを発症した井上慎平さんが、「なぜ僕たちは強くあろうとしてしまうのか」を考え直した本です。弱さを個人の問題として扱うのではなく、経済のしくみ、日本の文化、能力主義といった外側の条件から捉え直していきます。
哲学、人類学、進化心理学など引用の幅がかなり広く、読み物としての密度は高めです。逆に言えば、すぐ使える対処法を求めて読むと物足りないかもしれません。答えを出す本ではなく、自分が何に追われているのかを言語化するための本だと思います。
向く方・向かない方
向く方:いつまでがんばればいいんだろう、という感覚が抜けない方。後輩や部下を評価する立場になって、能力で人を測ることに引っかかりを感じている方。「やりたいこと」を聞かれるのがしんどい方。
向かない方:今まさに強く落ち込んでいる方には、勧めません。考える体力が要る本です。そういうときは、この本ではなく人に会ってください。また、明日から使えるノウハウを求めている方にも向きません。
※本記事にはアフィリエイトリンクを含みます。医学のすゝめはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。


コメント